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次は源義経でした、、 - satto320

2020/08/11 (Tue) 20:02:41

順番が間違ってますね。パズルと同じように、1つ解明したら、お隣のパズルという風にしていかないと、またんー?と塞ぎこんでしまいますね。近世大名の養子もそうでした。今まで悩んでたものが、別のところが1つ判明すると、あー、そういうことだったのか!というのが何度もありました。

平清盛の出自がわかったら、次は源義経ですね。頼朝は、平家を滅ぼした義経を次に滅ぼしたのですから。なぜ頼朝はあんなに兄のために尽くした弟を殺さなければならなかったか? きっとこれも血が関係しているのではないかと踏んでいます。義経の母は常磐御前。彼女も、増守の娘、平時子の母、と同じように、再婚をしている。身分は低いとの記載があるが、公家と再婚を果たすというのは、すごくないですか?何だかここにも隠蔽の臭いがします。源義経、もしかして、、 。一応、仮定として、
●菅原道真ー衍子(宇多天皇女御)ー源順子(藤原忠平室)ー実頼ー斉敏ー懐平ー経通ー顕家ー?中納言局(源頼綱室)ー仲政ー?二条大宮の半物(平時信室)ー時子(平清盛継室)ー徳子(高倉天皇中宮)ー安徳天皇

これをもとに解き明かしていこうと考えます。

あれ? - satto320

2020/08/11 (Tue) 08:35:51

平家の謎は解けたと思いますが、ちょっと気になることが、、。
以前、比企能員の出自を平経盛の息子?と予想したのですが、本当に? 何か引っ掛かっていまして、、。

というのは『能員』という名前。
比企尼の子は比企朝宗、なぜ『能』なのか、能員の子の能本は順徳院に支えたようだし、なんだか『能』は比企能員の出自を表しているような気がしてならなかったのです。
まだ、これといった予想は別についていないのですが、平清盛、平時子の出自から、もう一度考えると、何か答えがでそうな気がしているわけです。

、、比企氏も謎に包まれた一族でした。これを解明したいと思ってしまいました。比企能員は誰の子か?カギは比企尼、能、順徳天皇、若狭局、源頼家、これだけあればもしかして、解明できるかも。
比企尼が実子をさておき、猶子として比企氏を継承させた人物。北条氏と対立し滅ぼされた人物。頼家の子、源氏の棟梁となる予定であった一幡の外祖父。なんだか、平清盛のような立場で(安徳天皇の外祖父)、見つけてくれーといっているような気がしてならないんです、、。
、見つけられたら最高でしょうね。

『能』のつく人物がなんとなく、関わりがありそうなので、そこからピックアップして考えてみることにします。高家日野はまたあとで。

訂正 - satto320

2020/08/10 (Mon) 12:57:00

間違えがありました。

ということで、源仲政正室は藤原顕家娘と予想します。
→ということで、源頼綱正室仲政母の中納言局は藤原顕家娘と予想します。

いやー長い道のりでした。ようやく平家の謎を解き明かしたような達成感があります。これを大学の卒業論文にしておけば最高だったのになあ。当時はネットも普及していなく、簡単には調べられませんでした。今はちょっとググっただけであっという間に調べられます。何ていい時代でしょう。誰か若者がこれを卒業論文にしてくれればなあ、何て思ってしまいます。いつの日か、『平清盛の母は高階為行の娘でした。平時子の母は源仲政の娘でした。』これが通説になる日が来ることを待ち望みたいと思います。その時にはもう亡くなっているでしょうが。でも、隠蔽されたものはなかなか見つからないでしょうね。

ということで、また近世大名家に復帰です。現在、高家日野家を調査中。

つぶやき、、、 - satto320

2020/08/10 (Mon) 02:00:18

藤原顕家を調べてみた。尊卑分脈には正三位太宰大貮 参議 顕家と記述されていた。父の藤原経通も大宰権帥に就いていた。平家の祖を見ていくと、なんだか、この太宰府の関係者が多い。藤原隆家も大宰権帥。藤原良基も大宰大弐。源経房も大宰権帥。高階成章も大宰大弐。そして平清盛自身も1158太宰大貮となっている。太宰府関係で姻戚関係を結び、西国の勢力を拡大していったと考えられる。よって、あながち、この藤原顕家の流れを時子は持っていたと考えてもいいのかも、、、。

源氏はなぜ東国で、平氏は西国なのか?平将門が関東に一大勢力を築いていたはずなのに。子供の頃は不思議に思っていた。源氏は河内源氏というのだから東国には関係ないんじゃないかとも。で、大人になり気付いた。

清和源氏は坂上田村麻呂の女系子孫。源頼義や義家が後三年の役などで活躍できたのは、この坂上氏が築いた関東での信頼。そして鎌倉を本拠地にしていた平直方との姻戚関係。なぜ頼朝が鎌倉に幕府を開いたか?この平直方の女系子孫だからだと考える。

平家も大宰府の関係者との姻戚関係で西国の勢力を築いていったと考える。そして自分がなぜきっと菅原道真公の流れがあるとにらんだのは、怨霊もあるが、もう1つ、道真公は太宰大貮になっているからなのです。かの者の流れと姻戚関係を結ぶことはさらに西国への勢力を拡大できると思うのです。あまり、歴史学会では血の流れを重視していないようなので、大事な部分を見落としてしまいがちです。なぜ豊臣秀吉は征夷大将軍になれなかったか?簡単です。征夷大将軍で大活躍した坂上田村麻呂の血を引いていないからです。なぜ徳川慶喜は水戸家出身にも関わらず将軍になれたのか?簡単です。正統な将軍家徳川秀忠の女系子孫であり、当時の状況から皇室の血を引く者を期待されたからです。徳川慶喜の秀忠公の女系の流れはなかなか認められませんでした。池田家や中川家の状況証拠を示しても、、。でも確かな証拠が出てきましたので、今はウィキにものっています。ただし、奥平昌高は今も軽視のようです。なぜ島津氏から養子をもらったのか、自分が投稿するまでは、大名同士の親好があったから、これだけが理由とされていました。違います。前提には血を引いているかがあります。奥平氏の血を引いているからです。そして次に親好があったからです。大名の養子を調べていて、日本人は血にこだわって来たことを目にして来ました。それは昔から連綿と続いて来たようです。藤原氏はなぜ繁栄できたか?簡単です。蘇我氏の女系子孫であり、聖徳太子の流れだと思われる橘氏の女系子孫だからです。そして皇室は?簡単です。日本を創造したイザナギ、イザナミの子、天照大御神の男系子孫だからです。

平家と菅原道真、必ず結び付いていると思うわけです。なぜ平家は檀ノ浦で滅んだのか、大宰府に逃れ再起を計ろうとしていたのだと思います。

大宰府天満宮、未だ訪れていません。これも何かの縁。コロナが下火になったら是非訪れようと思っています。

中納言局は誰か?再度 - satto320

2020/08/09 (Sun) 20:29:36

1つ視点を忘れていました。源頼政の祖父となる源頼国はたくさんの公卿と姻戚関係を結んでいました。そうすると、自分の5男頼綱にはできれば公家の娘を、自分の外孫を嫁がせたいのでは?(公家社会では近親婚はよくあります)
カギは源頼国外孫、小野宮流、小一条院と何らかの関係がある者、そして中納言、これらの条件をそろえる人物は?と調べてみると、いました。藤原顕家。

この人物の娘が中納言局かも、、。
源頼国ー頼綱ー仲政ー頼政
源頼国ー女子(藤原顕家室)ー基実
源頼国ー女子(藤原顕家室)ー?中納言局ー仲政ー頼政

菅原道真ー衍子(宇多天皇女御)ー源順子(藤原忠平室)ー実頼ー斉敏ー懐平ー権中納言経通ー顕家ー?中納言局(源頼綱室)ー仲政ー頼政

源頼国流、菅原氏流の小野宮流、中納言。3つはクリア。これに小一条院との結びつき、それから年代が合えば言い訳です。

年代考証

藤原経通982ー1051
藤原顕家1024ー1090
源頼綱1025ー1097
源仲政?ー? 1095兄と共に六位蔵人任官(異例)
源頼政1104ー1180

蔵人は同じ源頼国外孫の藤原顕頼の場合、14歳で任官との記載がウィキにありました。
ということは源仲政1180頃ー?頼綱晩年の子のように思います。ということは、あり得ますね。頼政の年代とも合致。

小一条院との関係は?

源高雅ー女子(藤原経通室)ー顕家ー?小一条院女房中納言局
源高雅ー公子(藤原頼宗室)ー基貞
藤原頼宗ー院の上(小一条院敦明親王妃)ー源基平

ありますね!

ということで、源仲政正室は藤原顕家娘と予想します。

菅原道真ー衍子(宇多天皇女御)ー源順子(藤原忠平室)ー実頼ー斉敏ー懐平ー経通ー顕家ー?中納言局(源頼綱室)ー仲政ー?二条大宮の半物(平時信室)ー時子(平清盛継室)ー徳子(高倉天皇中宮)ー安徳天皇


●源守清ー高雅ー女子(藤原経通室)ー顕家ー?中納言局(源頼綱室)ー仲政ー?二条大宮の半物(平時信室)ー時子(平清盛継室)ー徳子(高倉天皇中宮)ー安徳天皇

※桓武平氏高棟流には醍醐源氏の流れがあります。
●源守清ー高雅ー章任ー女子(平範国室)ー経方ー知信ー時信ー時子(平清盛継室)ー徳子(高倉天皇中宮)ー安徳天皇

⚪️源守清ー高雅ー行任ー高房ー家実ー高階基章ー女子(平清盛室)ー重盛
⚪️源守清ー高雅ー章任ー女子(平範国室)ー?女子(藤原良基室)ー隆宗ー宗兼ー池禅尼(平忠盛継室)ー頼盛

この醍醐源氏の一致は偶然ではないような、、、。

無題 - satto320

2020/08/09 (Sun) 17:59:53

小野宮尼公、検索したら出てきました。違ったようです。またまた再考です。

小野宮尼公(おののみやのにこう、長元9年(1036年) - 長承3年10月21日(1134年11月8日))は、平安時代後期の女性。右大臣藤原実資の外孫で、兼頼の娘。母は藤原千古。実資の養女になり、小野宮(藤原実頼から実資に相続された名邸宅)を相続した。その後、中納言藤原祐家(権大納言藤原長家の子)の妻となって娘1人(藤原能実室か)を儲け、この娘に小野宮を遺した。晩年出家したため小野宮尼公と呼ばれた。長承3年に99歳の長寿を全うし、『長秋記』に「天下第一長命人也」と称された。
ウィキより

源仲政の母 、中納言局とは - satto320

2020/08/09 (Sun) 14:48:02

尊卑分脈には母小一条院女房中納言局とあり、素性はわからない。③128
以前は、小一条院敦明親王に関係する者で、父か祖父が中納言であった者として、藤原師成に娘ではないかと推測した。

藤原師尹ー済時ー娍子(三条天皇妃)ー小一条院敦明親王
藤原師尹ー済時ー権中納言通任ー師成ー?中納言局

藤原師成1009ー1081
源頼綱1025ー1097
源仲政?ー? 1095任官
とするとあまりに年代が離れてはいないだろうか?

さらにこの藤原師成には仮に仮説があっていれば道真公に辿りつくはずだが、見つけられない。

で、再考、、、
もう一人、中納言で小一条院に関わる人物を見つけた。
藤原兼頼1014ー1063

長元2年(1029年)に縁談が成立し、右大臣・藤原実資の溺愛した藤原千古を妻と為したため、小野宮家の資産を受け継いだ。千古の父・実資はこの縁談を慎重に行い、権中納言・藤原経通や同・藤原資平らに相談したり、主計頭・賀茂守道を召して婚儀の日取の吉凶を確認したりしている[1]。また、この縁から兼頼は小野宮中納言と号した。
ウィキより

小野宮中納言。誰もが知る存在となったようだ。

さてこの小野宮中納言の妻となる藤原千古

ウィキによると

生年は不詳であるが、万寿元年12月13日(1025年1月15日)に当時の貴族女性の成人の儀式に相当する着裳が行われており、当時の着裳が14歳前後数年のうちに行われていたことから、寛弘8年(1011年)頃の出生と推定されている。

父親の実資は天徳元年(957年)生まれであることから、50歳過ぎにして漸く出来た娘[2] ということになり、非常にこれを溺愛した。『大鏡』によれば、彼女に「かぐや姫」と愛称を付けたされる。また、寛仁3年12月9日(1020年1月6日)には処分状を作成して、小野宮家に伝わる荘園などの財産の殆どを千古に継承させ、「道俗子等一切不可口入」と宣言して、養嗣子の資平(甥)や僧侶にしていた庶子良円には殆ど財産を残さなかった[3]。

実資は千古を天皇の妃にすることを望んだが、表面上は実資に敬意を払いつつもその政治力の拡大を恐れる藤原道長・頼通父子の前に入内を阻まれた。その後、実資は正妻を亡くしていた道長の子・長家の後妻にしようと図り、道長の了承を得るが長家がこれを拒絶したため、縁談は破談となった[4]。その後、道長の孫である藤原兼頼(頼宗の子)の妻になった。その後、兼頼との間に娘を儲けたが、長暦2年(1038年)頃に父・実資よりも先に没した。結果的には、道長ら九条流の最大の競争相手であった小野宮流の財産の殆どが九条流(正確には道長の御堂流)に入ることとなり、経済的基盤を失った小野宮流は院政期には没落して事実上消滅することになった。

一人娘がいたという。ウィキによれば小野宮尼公。この人物が、どうなったかはわからない。尼公というからには、ある程度ながらえたことだけは想像できる。

さてまたまたここで空想。というのは、尊卑分脈には藤原千古の存在も、小野宮尼公も一切記載がないのだ。
でもこの小野宮尼公が中納言局と予想すると、数々の謎が解けていく、、。
①小一条院との関係
藤原道長ー頼宗ー小野宮中納言兼頼ー?中納言局
藤原道長ー頼宗ー院の上(小一条院敦明親王)妃)

藤原伊周ー女子(藤原頼宗室)ー小野宮中納言兼頼
藤原伊周ー女子(藤原頼宗室)ー院の上(敦明親王妃)

②中納言局
この当時は中納言と言えば、小野宮中納言のことを指していたのであろう。小野宮流の莫大な財産を継承できたのだから。誰もが知る存在であった。だが、男子を誕生させることができず、兼頼は没落。小野宮継承者の千古も早世し、残された姫は親族の小一条院女房として仕えたのではないか。

③小野宮家は菅原道真公の流れ

菅原道真ー衍子(宇多天皇女御)ー源順子(藤原忠平室)ー実頼ー斉敏ー実資ー千古(小野宮中納言藤原兼頼室)ー?中納言局(源頼綱室)ー仲政ー?二条大宮の半物(平時信室)ー時子(平清盛継室)ー徳子(高倉天皇中宮)ー安徳天皇

藤原道長ー頼宗ー小野宮中納言兼頼ー?中納言局(源頼綱室)ー仲政ー?二条大宮の半物(平時信室)ー時子(平清盛継室)ー徳子(高倉天皇中宮)ー安徳天皇

正統性のない安徳天皇が、もしこの仮説があっているなら一気に正統性を持った天皇となる。以前、天皇の系譜を調べたが、安徳天皇にだけ菅原道真の流れはない。もちろん、天下を仕切った藤原道長公の流れも。

●祇園女御妹ー平清盛ー徳子(高倉天皇中宮)ー安徳天皇
●二条大宮の半物ー平時子(平清盛継室)ー徳子(高倉天皇中宮)ー安徳天皇

桓武天皇の流れの平家と言えど、所詮は成り上がりもの。清盛母と時子母の本来の出自を抹消することで、安徳天皇の正統性はなくなるのだ。

実際、安徳天皇がいるにも関わらず、朝廷は後鳥羽天皇を即位させる。そして持っていった正統性の証となる神器を返還させようと平家側と交渉を図っていく。

さまざまな要因で平清盛、平時子の本来の出自は抹消された、そう思えてしまう。

一応、年代考証

藤原道長966ー1028
藤原頼宗993ー1065 藤原実資957ー1046
藤原兼頼1014ー1063 藤原千古1011?ー1038
源頼綱1025ー1097
源仲政?ー? 1095兄明国と蔵人任官(異例)
平時信?ー1149 源頼政1104ー1180
平時子1126ー1185
平徳子1155ー1214
安徳天皇1178ー1185 在位1180ー1185
※後鳥羽天皇1180ー1239 在位1183ー1198

源仲政を調べてみると、、、 - satto320

2020/08/09 (Sun) 11:29:01

皇后宮大進在任時の天仁元年(1108年)には仲政の郎従が尾張権守・藤原佐実を襲い刀傷を負わせる事件が起きたが、これは佐実との愛人を巡る争いが原因であった[3](『中右記』)。この話は後に『十訓抄』にも載せられている。
※注3
この愛人とは皇后宮令子内親王の女房・宣旨に仕える「半女」と呼ばれる召使いの女であった(『中右記』同年5月18日条)。また佐実に刀傷を加えた仲政の郎従は後に検非違使藤原盛重によって捕えられている(同21日条)。

源仲政をウィキでみると、こんな記載が、、。詳細はよくわからないが、仲政の家来が藤原佐実を襲って傷を追わせたことがわかる。さて、この藤原佐実。

伊勢守藤原佐実のことか?
・藤原邦恒ー義綱ー女子(藤原隆宗室)ー宗兼ー池禅尼(
平忠盛継室)ー頼盛
・藤原邦恒ー行房ー佐実

もしかしたら、この令子内親王に関わる事件が、平時忠との離縁の原因かもしれません。
いずれにしても、源仲政と令子内親王との接点を見つけられました。源仲政の娘皇后宮美濃はウィキの記述通りり、令子内親王女房の可能性はおおいにあるようです。
ただ、皇后宮美濃が、二条大宮の半物と同一人物かは状況からみて、確率は高いと思いますが、確定はできません。あくまでも推論でしかありません。

平家のなぞ② - satto320

2020/08/09 (Sun) 04:51:41

やはり平家の謎が多いのは、意図したものではないかと思ってしまう。目的は『平家は菅原道真公の子孫ではない』この一点に尽きる。平清盛母と平時子の母を隠蔽することによって、道真公からの祟りを回避しようとしたのではないか。一介の成り上がりの者が天皇家を支配し、安徳天皇という幼帝をたてた。この不埒の輩を成敗したのは、他でもない。菅原道真公の子孫でもあり、武門の頭領坂上田村麻呂の血をひく源頼朝である、と。

頼朝に流れる血脈を記載した尊卑分脈は明らかに矛盾している記述で誤魔化している。

②44
1藤原清綱ー隆能 母高階為行女

2藤原清綱ー隆時ー清隆ー隆能 母高階為行女

と、代数では2代も違う説を記載している。
そして、1説の方は本当に正しいのか?と編者は注に記し、疑問を投げ掛けている。

ここで問題になるのが、以前も述べたが、源頼朝につながる藤原忠清の母について。母同 なのだ。

これが意図することは

1の説が真実であれば

後冷泉天皇ー高階為行ー女子(藤原清綱室)ー忠清ー女子(源為義室)ー義朝ー頼朝

菅原道真・・・増守ー女子(後冷泉天皇妃)ー高階為行ー女子(藤原清綱室)ー忠清ー女子(源為義室)ー義朝ー頼朝

2の説だと (年代的に編者がいう通り2の説が正しいと思う。)
母同は藤原清綱の子の隆時と同じの意味になるので、

平信濃守貞盛ー女子(藤原清綱室)ー忠清ー女子(源為義室)ー義朝ー頼朝
※平貞盛は信濃守ではないし、年代的にも合わないのできっと、平貞盛の養子となった信濃守維茂のことだと思う。よって

平国香ー繁盛ー兼忠ー維盛ー女子(藤原清綱室)ー忠清ー女子(源為義室)ー義朝ー頼朝

なんと源頼朝は女系では桓武平氏の流れだった!

この一点だけの記載で、①頼朝は逆賊平家の流れではないこと、②道真公の加護も手にし、③後冷泉天皇の流れもあることを示し、平家討伐の正統性を手にした。

この改竄は今も現に続いている。天皇の祖先というサイトでは、高階為行が皇室の祖先の一人にあげられている。つまり1の説を採用しているわけだ。(義朝の娘坊門姫を通して皇室につながる)
『母同』の記述に惑わされているのだ。
むしろ、この時代、平氏と源氏は武門の棟梁として和合しているわけで、為義の正室に平家の流れを汲む藤原忠清の女を迎えることの方が自然に感じる。先代の源義忠
は平正盛の娘を正室に迎えているわけだし。

ただ、調べていて、源頼朝には2つの道真公の流れが存在する。一部?という箇所はあるが。

●菅原道真ー淳茂ー在躬ー女子(盛明親王妃)ー源則忠ー道成ー兼長ー隆長ー女子(源義家室)ー義親ー為義ー義朝ー頼朝

●菅原道真ー寧子(斉世親王妃)ー源英明ー堯時ー女子(源時通室)ー雅通ー女子(源兼長室)ー隆長ー女子(源義家室)ー義親ー為義ー義朝ー頼朝



天下をとった平清盛公の母が記載なし、どの史料にも出自がわからないとは、どう見てもおかしい。さらに正室の時子の母も不明とはおかしい。一応、尊卑分脈に記載されている母藤原家範女を調べてみたが、菅原道真公にはたどり着けない。高階氏流隆家孫にまでは行けるが、、。

ちなみに、調べていて気づいたことだが、平家は西国、源氏は東国に基盤をおくが、この理由として、平家には刀伊の入寇で活躍した大宰権帥 藤原隆家の流れが、源氏には征夷大将軍坂上田村麻呂と板東平氏の平直方の流れが理由と思われます。

この清盛公に関する道真公に繋がらせない2つの隠蔽は偶然なんでしょうか?道真公、安徳天皇の怨霊を恐れての意図された隠蔽工作と思えてならない。

※諡号に徳のつく天皇は非業に倒れた天皇へ鎮魂をこめておくる名だという。崇徳院、安徳天皇、顕徳院(後鳥羽天皇)、順徳院。怨霊信仰と鎮魂が、日本の歴史を動かす一つの原動力となっているようです。

源頼政、、年代考証 - satto320

2020/08/08 (Sat) 20:33:38

年代考証をしてみました。

源頼綱1025ー1097
源仲政?ー? 1095六位蔵人任官
平時信?ー1149
平時子1126ー1185 能円1140ー1199
平宗盛1147ー1185
平清宗1170ー1185

といこうで、あり得ますね。
二条大宮の半物は、皇后宮美濃と同一人物ととらえていいのではないでしょうか?

よって、
●源頼国ー頼綱ー仲政ー頼政
●源頼国ー頼綱ー仲政ー?二条大宮の半物(初平時信妻)ー時忠ー蕨姫(源義経妾)
●源頼国ー頼綱ー仲政ー?二条大宮の半物(初平時信妻)ー時子(平清盛継室)ー宗盛ー清宗
●源頼国ー女子(藤原為房室)ー顕隆ー顕頼ー祐子(平時信室)ー清子(平宗盛室)ー清宗
●源頼国ー頼綱ー仲政ー?二条大宮の半物(後藤原顕憲妻)ー能円ー在子(後鳥羽天皇妃)ー土御門天皇
●源頼国ー頼綱ー盛子(藤原盛実室)ー顕憲ー能円ー在子(後鳥羽天皇妃)ー土御門天皇
そして
●源頼国ー頼綱ー盛子(藤原盛実室)ー?女子(藤原家隆室)ー?女子(平忠盛妾)ー教盛

ちなみに源頼政と一緒に反平家の蜂起を起こした以仁王は
●源頼国ー女子(藤原為房室)ー顕隆ー顕頼ー女子(藤原季成室)ー?成子(後白河天皇典侍)ー以仁王

こうみると、かなり確立は高いのではないかと思えてしまいます。

ただ、1点修正。
二条大宮の半物が平時信と別れた理由は、源頼政の挙兵ではないですね。きっと同じ源頼国孫の藤原顕頼娘に平時信の心が移っていったものと想像します。1140に能円が生まれていますから。ただ、女房から半物の身分に落とされたのは、頼政反乱の影響かと思います。

で、源仲政母の中納言局、一応目星はつきましたが、まだ調査中。


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